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九谷焼
■ 発祥から廃窯まで ──────────────────────────

九谷焼の発祥は、今からおよそ340年前の明暦年間(1655〜57)にさかのぼります。加賀藩の支藩大聖寺藩の殖産興業の一環として領内の鉱山開発に着手した初代藩主前田利治が、江沼郡九谷村の金山で磁鉱が発見されたことを知り、金山の錬金術師だった後藤才次郎に色絵磁器を焼くことを命じたのが始まりといわれています。
才次郎は、当時すでに磁器の産地として知られていた肥前(佐賀県)におもむき、酒井田柿右衛門によって完成された赤絵の技術を習得しました。そして有田の工人を連れて帰国するとただちに九谷に窯を築き、加賀の工人田村権左右衛門らを指導して色絵磁器製造に着手したのです。
九谷村で焼かれはじめたことから九谷焼と名づけられた焼物は、絵付に紺青・紫・黄・緑・赤のいわゆる九谷五彩をふんだんに用い、中でも黄と緑を多用した『青手』と呼ばれるものがほとんどでした。そのころ焼かれたのは鉢や皿、碗類が多かったようです。しかし、素地が青みがかっているうえに砂混じりで粗雑だっために、それを覆い隠す方法として、花鳥山水や幾何学模様などで全面を塗りつぶす九谷焼独特の塗埋技法が生まれたといわれます。
才次郎の築いた窯は、こうして短期間のうちにめざましい発展をとげましたが、およそ50年続いた後の宝永7年(1710)に突然廃窯となりました。理由は、事業推進の主人公だった二代藩主前田利明や、指導者の後藤才次郎が没したためとする説、藩内の政治や社会情勢が原因とする説などいろいろありますが、真偽は今もって謎とされています。ともかく、廃窯によってそれまで焼かれた九谷焼は後に『古九谷』と称され、再興された九谷焼とは一線を画しています。 加賀市大聖寺の町並み 画像
加賀市大聖寺の町並み
■ 再興された九谷焼 ──────────────────────────
謎の廃窯から約100年をへた文化4年(1807)、九谷焼は加賀藩によって再興されることになりました。当時名工と称された京都の青木木米を金沢に招き、卯辰山山麓に春日山窯を開かせました。ところが名品の創作に意欲を燃やす木米の意思に反し、春日山窯建設の目的は藩の殖産振興だったために、互いの意向が折り合わず、木米は九谷焼再興の夢なかばにしてわずか2年足らずで京都に帰りました。しかし木米の夢は多くの陶工に受け継がれ、大聖寺では後に加賀藩の支配下におかれた若杉窯、郡奉行の援助を受けた小野窯、後に山代に移転した吉田屋窯、飯田屋の画風を生み出した宮本窯、永楽和全の永楽窯、さらに小松に粟生源右衛門窯、金沢に春日山窯の系譜を継ぐ民山窯などが次々に開窯して九谷焼を再興しました。
再興九谷は古九谷の技法を踏襲しながらも、それぞれの窯の指導者の好みによって特徴の異なる上絵の作風が打ち立てられました。たとえば木米は全面に赤をほどこし、人物を五彩で描きこんだ中国風。また吉田屋は赤を使わず、紺青・紫・黄・緑の四彩を用い、主紋様に地紋様を配して上絵具を塗り重ねた青手古九谷の塗埋様式を取り入れています。そのほか赤で綿密に人物を描いて周囲を小紋等で埋めつくす飯田屋や、全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色した豪華絢爛な永楽など、多様な画風が生まれましたが、中でもいっきょにその名を高めたのは、江戸時代末期に現れた九谷庄三〔くたにしょうざ〕の庄三風という画風でした。
能美郡寺井村の農家に生まれた庄三は11歳で上絵付の陶工となり、たぐいまれな才能を発揮して26歳で工房を開きました。そして、それまで和絵具一辺倒だった九谷焼に当時輸入されはじめたばかりの洋絵具をいち早く取り入れ、九谷上絵を一新しました。顔料釉薬では表せなかった中間色を豊富に焼き出し、さらに金の焼付法を開発して、極彩色の華麗で緻密な『彩色金襴手』と呼ばれる技法を確立したのです。
庄三の作品は明治になると海外にも輸出され、その派手さが外国人の好むところとなって『ジャパンクタニ』の名で人気を呼びました。豪華な上絵付はやがて九谷焼そのもののイメージとして定着し、現在でも九谷焼といえば多くの人が庄三風のものを思い浮かべるまでになりました。
九谷磁器窯跡 画像
九谷磁器窯跡
■ 明治から現代まで ──────────────────────────
九谷庄三は明治16年(1883)に没しましたが、その時には弟子は300人を越えていたといわれます。洋絵具は和絵具と違い、誰でも同じような調子で仕上げられることが多くの弟子を抱える要因になったようです。そうしたことからいっきに九谷焼の生産量を引き上げた庄三の工房は、殖産興業としての九谷焼生産に大きな役割を果たし、今日の産業九谷の基礎を確立したともいえるでしょう。
九谷焼は明治6年(1873)のウィーンの万国博覧会を皮切りに、各国の博覧会に積極的に出品されました。それにともない国内外での需要も高まり、多くの名工を輩出しました。そして伝統は脈々と受け継がれ、昭和50年(1975)には国の伝統的工芸品産業に、翌51年には石川県無形文化財に指定されて今日に至っています。
しかし本来は深い味わいのある日用雑器だった九谷焼は、庄三風の影響もあり、しだいに彩色金襴の高価な芸術品として位置づけられるようになりました。そうした中で古九谷への回帰という指向がある一方、現代感覚にマッチしたデザインの開拓も急務とされています。九谷焼の後継者育成をめざして昭和59年に設立された能美市の石川県立九谷焼技術研修所では、陶工の卵たちが斬新な感覚で腕を磨いています。こうした若者たちが伝統の技法を踏まえながら、新しい試みに取り組むことこそ、本当の伝統継承なのかもしれません。 九谷焼技術研修所 風景
九谷焼技術研修所
■ 早くから完成していた技術 ──────────────────────
さて、廃窯から再興へと波乱の変遷をとげてきた九谷焼ですが、高温で何度も焼成を繰り返す高度な技術は、古九谷の時代からすでに完成していたと考えられています。当時の記録はほとんど失われていますが、昭和45年(1970)から発掘調査が行われた現在の山中町九谷の古窯跡からは、再興九谷もおよばないといわれるほどの技術を駆使した器物の破片が2万点あまり出土しています。
この古窯跡は後藤才次郎によって築かれた九谷焼黎明期の窯で、今も2基の登窯の跡が残っています。1670年の前後約30年間に終末を迎えたと推測される1号窯は、全長34mの連房式登窯です。直径50cmあまりの白磁大皿や草花を描いた碗の破片が出土し、その一つに『明暦弐歳 九谷八月』の銘文が発見されました。また、それより約40年後に閉窯したと推測される2号窯は全長13.7mで、陶器質の茶碗が多く焼かれていたようです。
そのほか平成7年(1995)に山代温泉で発掘された吉田屋窯跡や、小松市の安宅住吉神社で所蔵する才次郎作といわれる一対の狛犬などからも、早くから技術が確立していたことがうかがわれます。

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